池田敏雄

池田 敏雄(いけだ としお、1923年8月7日 - 1974年11月14日)は日本のエンジニアで、日本のコンピュータ開発のパイオニア。1970年から富士通役員を務め、死後に専務を贈られた。

日本の汎用機黄金期を築いた業績から、没後に“富士通の池田敏雄・NECの水野幸男”と双璧として譬えられることも多い。日本のコンピュータ産業の父である。

どんな場所でも考え続けること

池田は何かアイデアを考え始めると、職場・自宅のほか、同僚の家でもひたすら考え続けたという。

ついには出社することさえ忘れ、夕方になって突然会社にやってきて、今度は会社から帰らずに数日考え続けたというエピソードもある。数日出社しないことはざらであり、日給制が普通だった当時、これでは池田の給料が支払えないと困った会社側が、池田を支持する同僚の訴えを聞き入れて、彼だけ月給制にしたという話まで残っている。

プロジェクトルームは社内ではなかった

池田が在籍していた当時の富士通にはこうした奇行を受け入れる社風が存在し、池田の天才的能力を生かせるだけのメンバーが揃っていた。東京目黒区、大岡山のトンカツ屋「 あたりや」や喫茶ミュスカをプロジェクト・ルームとしそこに部下を集め、開発を進めたことや、熱海市の保養所泊り込みでの研究開発時に温泉三昧をしていたこと、多摩川の河原で模型飛行機を飛ばして近所の子供達の人気者だったエピソードも知られている。

突然の急死

アムダール社との提携において非常に個性の強いジーン・アムダールとの調整は困難を極め、業務上のストレスに加え、頻繁な米国出張による航空機での往復は肉体的に大きな負担となった。ついに池田は羽田空港でカナダの提携先の社長を出迎えた時に突然倒れ、そのままくも膜下出血のため51歳で急死した。

記録

参考

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